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  < 突然の痛み> 2003年2月15日

  2月15日夜7時頃、2階に上がった私は電灯をつけようとひもを引っ張った。空ぶりをくらった瞬間、胸に息苦しさと重い圧痛が押し寄せてきた。腰と下腹部に猛烈な痛さが襲う。胸から下がシビれつぶされたようにどっと倒れる。上の娘が「どうしたの?」と部屋の外から声をかけてくる。真っ暗だし声が出せない。どうして呼ぼうか?指を鳴らしてみた。鳴った。正確にぱちぱちと。そばに寄った娘に「救急車」とだけ言えた。1階に異常を告げに行く娘。・・戻ってきて病院を尋ねる。「I会病院・・・診察券・・・ズボン、ポケット。」私がやっと言えた言葉だった。眠ると意識を失い死んでしまう(オイオイそれは雪山遭難じゃ)、と思いつつ、数字を数える。救急車に運び込まれる前に気絶してしまった。

  <われ闘病せず>  〜2/26日

 けしからんことであるが、私には26日ぐらいまでの記憶が全然ない。従ってこの間の事情は妻が残してくれたメモや、人の話、後にIEで調べたことによって再生する。

 救急でICQに運ばれたが病名がようとしてわからぬ。K医師がぽつんと一言、「後一つ空恐ろしい病気が残っている・・」。それが急性大動脈乖離、私を苦しめた病である。急性大動脈乖離は、大動脈を包む3層に起こる病気である。内側の皮に傷が付くと中の層に血がはいる。中の層は海綿状になっているのでどんどん血を吸い上げる。動脈は普段の何倍にもふくれることもあるそうな。そのうち圧力のために外の皮が破裂すると・・・・・恐ろしくて書けぬ。A形急性大動脈乖離で高血圧が絡む場合、生存率は1割という(調べたうちでのもっともシビアな数字、わたしのはこれにあたる)。原因がわからなかったり、発見が遅れるために死亡率が高いという。もちろん手術も危険なものだそうだが・・・。

 病状と手術の説明を聞き私は、手術受託の宣言をする。「わたしは危険率30〜50%の手術を受けます。」その席には妻、二人の娘、兄夫婦、妻の父母、妻の姉夫婦がいた。皆神妙に、ガンバレと励ましてくれていた。ところが、私にはその記憶がない。入院中の晴れ姿(?)を思い浮かべることができないのだ。 以上が2月16日の話である。また、HPにわたしが入院したこと、しばらくはネットともご無沙汰になることを掲示板に書いてくれるよう、下の娘に頼んだこともすっかり忘れていた。

 2月17日、2番手で手術するはずであったが繰り上がる。夜中に腰が痛いと言いだし、鎮静剤を投与してもらう。それを機に酩酊状態に陥ったそうな。ココハドコ、ワタシハダレ状態とのこと。夕方まで待てないという判断で急遽朝9:00にオペ開始。妻は親戚縁者に連絡に走る。手術は12時間以上に及び兄夫婦も東京から間に合う。もうろうとした意識の中で手術は行われたらしい。夜10時にオペ終了。11時意識が薄れてきて、妻の面談がかなう。「手術が終わったよ、よくなるからね。」と声をかけてくれるが、私は痛さで体を動かすだけ(なんちゅうやっちゃ)。

 後日意識が回復してから、看護士をしている教え子と病室で会う。私はすでに忘れていたが、彼女が高校3年の時、看護婦になりたいという進路相談に私が親身に乗っていたそうな。その縁で、手術の際には自らすすんで立ち会ってくれたという。感謝。私は手術中の「酩酊状態」について尋ねた。人によって見方があまりにも違う出来事だったからだ。 「痛そうに体を動かしていた」(妻)。 「暴れていた」(某医師)。 「何を尋ねても答えてくれない」(主治医) ・・・etc。 彼女はにこにこ顔で教えてくれた。 「ZARDを歌ってらっしゃいました」 「?」 なんてことだ! 私は坂井泉水さんが好きだし、何曲かはカラオケで歌う。だから手術という非常事態に 「負けないで」 とやったのはわかることだ(ブラックじゃ−)。でも、ヤッパリなんてことだ!

 当時の記憶が全く無いことが今も残念だ。死に直面したとき、私はどんな気持ちでいたのだろう。堂々とそしてテキパキと対応していたと妻は言うが、私の内心はどんなであったろう。医師が病状を説明し手術の承諾を求めにきた時、私は話を遮って「今の私には理解する能力がありません。でも手術をしないと助からないのでしょう?」と言ったよし。果たして状況把握ができていたのだろうか?わからなかったから恐れてなかったのではないだろうか?また外面とは裏腹に心はひきつっていたのではないだろうか?何かに未練を残していなかっただろうか?やっておけばと後悔したことはなかったのだろうか?危機に直面した時にこそ、その人の器量や人物が分かるというもの。私はどの程度の人物だったのか、人生に満足していたのだろうか、うかがい知る好機だったのにと思う。神仏は人生の神秘をあかしてはくれないものらしい。

  <夢と現実との狭間>      2月26日〜3月4日

 意識を失ってから10日ほど経って、私は時々目を覚ます。傍目には意識が戻ったように見えるらしい。集中治療室から一般病室に移される。「足を伸ばしてください」と言われたら伸ばす。妻が「わかる?」と聞けばうなずく。筆談を始めるが字にならない。思いが伝わらず妻には当たってばかりいたそうだ。翌日はうってかわって妻に甘えていたらしい。ベッドから身体を起こそうとし激しく動いて看護士さんを手こずらせていた。妻が来ると赤ちゃんのようにニコニコ顔に変身。「全然表情が違うね」看護士さん達の話である。そう、時には困らせ、時には甘えてみせる。そうして母性本能をくすぐり「私がいなければこの人は駄目なんだ」と思わせる。それが女性を操縦する高等戦術なのだ(キ、キミはヒモか!)。

 このころの私は叱られてばかりいたらしい。手袋をはめた手で管をはずそうとしては叱られ、起きあがろうとしてはおさえつけられていた。「ジュ−ス」と書いても「もっとおなかがしっかりしてから」と断られ、「お茶」と書いても拒否される。目を離すことができない問題児と、ナ−スステイションから一番近い部屋の入り口付近にベッドを置かれていたみたい。みたいというのは記憶がはっきりしないからである。意識が現実と夢の中を行き来していた。やがて、ずっと付けっぱなしになっていた点滴が朝夕だけになった頃、私の意識も現実に戻った。

 思えば病に倒れてから20日ほど、私は闘病などしてこなかった。病と闘ってくれたのは、医療関係者であり、家族であった。本当に感謝、感謝。私には手柄などなにもない、そう思えるのだ。

 3月4日、尿の管が抜けすべての管がなくなる。自由になったと思ったのはつかの間、ベッドからおりてはだめと強く言われる。でも昼間はご機嫌で過ごす。夜に騒動が起こった。強い風が吹き近所で火事が起こる。消防車や救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえる。何となく不安な気持ちになる。しかも病室の住人たちが、普段よりいっそうの変人と化す。おばあさんのブツブツが意味を持った話に変わる。息子が来た・・・・嫁が来た・・・・座敷ワラシが来た・・と。おじいさんは、漁業協同組合長時代の自慢話をはじめた。独り言に恐いものなし、和歌山県知事から感謝状をもらったときのお礼の演説を始める。おばあさんとおじいさんのデュオが続き、ワラシとイワシが私の頭を占領する。眠られない私は、何度も何度もベッドから降りようとする。そのたびに看護士が飛んできて取り押さえる。とうとう主治医が私の手首をゴムで縛りベッドに結わえつけた。それを見ていた、別のおばあさんが主治医の非人間ぶりを非難し始める。「許してください、助けてください・・」(アノ・・・ヒドイ目に遭っているのは私なんだけど・・)「前から言ってるようにもっと優しく人間らしく扱ってください・・」(よく言ってるよな・・始まると何時間でもしゃべるんだよな・・)「痛い・・いい加減にしないと厚生省に訴えますよ・・」(厚生労働省に変わったんすけど・・)「太田さんもよく知っています・・・あの方は女の苦しみの分かる方です・・」(太田って知事さん?あなた逢ったことあんの?)・・・この名調子が延々と続く。

 その夜、私は夢を見た。町をさまよっている。主治医に会う。「近くに知り合いがいるからそこに泊まっていきなさい」という。マンションの玄関ホ−ルを抜けるとすぐに白いドア。そこで寝てしまう。目覚めると若い女性が勉強をしている。私が起きて動こうとすると、「動いては駄目」と制止する。M先生に叱られますよ、とも言う。そうか、ここは主治医の知り合いの家なんだ、と納得する。また寝入ってしまう。人の声がしてまた目を覚ます。女性が一人増え二人で勉強をしている。何をしているのか気になって、後ろの棚を見ると、『○○の応急処置について』とか『○○検査法』とかいった本の背表紙が見える。看護婦さんのタマゴなんだな、と思う。いや女医さんかな。でもM医師との関係はいかに、なんて考えてしまう。ピンポン♪インタ−ホンが鳴り、一人が玄関に出て行く。朝早くから誰だろう?なんて思いつつ、またまた寝入ってしまう。

 次に目覚めたとき、私は病室にいた。妻が見舞いに来ていた。看護士が言った。「夕べはナ−スステイションにお泊まりになったんですよ」 ?ウソッ? 周りがうるさくて暴れたのだと言う。やむを得ず主治医の指示でナ−スステイションにベッドごと運んだのだと。しまった!何という失態だ!うまくナ−スステイションに潜り込んだというのに、うかつにも寝てしまうなんて! チガウッ!

  <意識の回復、そして闘病生活開始>  3月5日〜3月23日

 私はこの週、現実と夢との区別がつかない状態だった。一日中白昼夢の中にいたと言える。一晩ナ−スステイションにご厄介になったという事実が、私の脳細胞に強烈な刺激を与えたようだ。何とかしなければ私が私でなくなる。何か本能めいたものが、混濁の世界から私を正気に引き戻してくれた。やっと私に意識が帰ってきたのだ。

 じっと胸を見る。首の左横から斜めにメスが入り、のど仏から下にへその上3cmぐらいまで手術の痕が走っている。肉色でまだ糸が抜けていない生々しい傷跡。どんな手術を受けたのか全く記憶がない。あるのは救急車に運ばれた時のことまでである。日を数えるとすでに18日がたっている。何をしていたのか、ナゼ自分がここにいるのか確かなことは分からない。妻に病名を聞いてみる。「ダイド−ミャクカイリ」。職業柄「大動脈乖離」という漢字は思いつく。「どんな手術?」「動脈の悪いところを切り取り、静脈を切ってつなぐの。」動脈と静脈は成分的に同じ、分かるような気がする。どんな症状で、どれほど危険だったのか、それ以上は分からない。手術に13時間かかったこと、危険な手術を自分の意志で受けたことなど聞かされる。驚きの連続。妻は私が何も覚えていないことにショックを受けたもよう。

 自分が人間らしい意識を取り戻すのに何が必要か考える。一つは食事や水をしっかりとること。栄養と水分のほとんどを点滴に頼っていた。ご飯はノリ状、おかずは味のない離乳食状。とても食べにくいが、食べるのが「社会復帰」の第一歩、残ささないようにと決心。はじめは口の中にくっつき残り苦労するが、だんだんとよくなり無理をせずに食べられるようになる。お茶は吸い口で飲ませてくれるが、私はのどが痛くて飲み込めない。すぐにむせてしまう。私は思いきって妻や看護士さんに迷惑をかけるやり方を選んだ。お茶をコップに入れてもらう。身体を起こし、お茶を飲む。この方が時間と手間はかかるが、確実にお茶を飲むことができる。自分のペ−スも作ることができる。起きるとき、身体を一気に起こすので看護士にはよく叱られた。抜糸の済まない患者が元気よく起きあがるのは信じられないことらしい。

 もう一つトイレの問題があった。尿管がはずれたばかりなのでシビンで用を足していた。他の用のついでに道具を出してもらったり、片づけてもらったりしていた。便はオマルだ。どうにかならないだろうか。私は一計を案じた。妻に介助を条件にトイレに行く許可を申し出たのだ。トイレは病室の前にある。そこはナ−スステ−ションの横だ。この案には私なりの計算があった。ベッドに起きあがってはイケナイ、ベッドを降りてはイケナイというル−ルがあった。私には相当苦痛だった。早く自分の意志でベッドから立ちたかった。幸い妻の介助があればということでOKが出た。妻に手を引かれてベッドから立ち上がったときのことは今でも覚えている。オオッって感じ。オレハ二本足デ立ッテイル!自信が持てたときから、妻には一歩下がってもらうようにした。日本古来の美風(妻は夫の三歩後を歩むこと)を妻にたたき込むためである(チガウ!)。本当のねらいは後々のため、私一人で歩く姿を見慣れてもらうことである。やがて私は一人で堂々とトイレに行くようになっていた。

 トイレまで二足歩行をしながら考えた。もう少し院内を自由に散歩できないだろうか?目を付けたのが食事である。病人は基本的には病室で食事をとる。でも元気な人は食堂でとることができる。夕方「明日から食堂で食べるわけにはいかないだろうか」と相談する。深夜の診察の時OKが出る。翌朝食堂デビュ−。窓が広い。二上山、玉手山、葛城山、金剛山・・見るだけでメチャクチャ楽しくなる。ご飯は五分がゆ。おかずはペ−スト状。ほとんど具のないみそ汁。わびしい。その代わり薬はたっぷり15錠。そろそろ最終計画の時が来た。私は病室のある階を散歩させてくれるよう頼んだ。すぐに許可が出るだろうと思った。が、甘くはなかった。許可が出たのは二日後だった。

 ナ−スステイションで寝た次の日から病室が変わった。病状の軽い落ち着いた人たちが集まっている部屋に移った。だから前の病室より明るい雰囲気だ。、ワラシやイワシの騒がしさはない。「助けてください!」 の絶叫も聞かなくて済む。プリプリやザ−ド、ブル−ハ−ツなどのCDを聴くことができた。適度に散歩をし疲れたら眠ればいい。ナ−スステイションとは一部屋分ずれているので、監視されている重苦しさもない。気分は天国♪

 私が食堂で食事をとるようになって3日ぐらいしたころ、一人のご婦人が同じように食堂に姿を見せた。車いすに乗って現れ旦那さんが付き添っておられた。60過ぎのとてもお似合いの二人である。私と旦那さんとは会釈を交わした。奥さんはと言えば・・・ナゼか懐かしそうに私の顔をじっとごらんになっている。ハテお知り合いではないはずだがと思いつつ、尋ねてみる。「どこかでお会いしましたか?(ワアー、古い!いつのナンパ文句なんだ!)」「ヤッパリあの人だ!」(あの人って?ワクワク!ドキドキ!)。聞けば、彼女は手術の時に順番を変わってくださった方だという。2番手だったわたしが先に手術することになり、事の成り行きを病室で見守っていてくださったのだと。「お若い方なので助かると思っていました」。彼女から見ればわたしも若い方。「大変な手術だったんですよ・・」今更ながら手術の重さを知る。また13時間も待ってくださったことに感謝。

 同僚が10人ばかり見舞いに来てくれた。ウトウトした眠りから覚めた時、見慣れた顔がそこにあった。 当然のようにはしゃぐ私たち。きっちりと婦長さんに注意される。 食堂に行き、そこで話をする。わたしが歩けることに同僚たちは驚嘆する。職場ではわたしはつい最近まで生死をさまよっていることになっていたそうだ(おおむねその通り)。やっと面会できるというので、早速来てくれたそうな。学年末、入試の時期に倒れて迷惑をかけたこと。とりわけM先生には担任の仕事を代わっていただいて大変な思いをさせたことについてわびた。忙しい中、感謝、感謝。同時に我が身のふがいなさを強く感じた。職務に参加できないことを寂しく思う程度には・・・・私も仕事人間。

 この病院では、夜に事件が起こる。今回の主人公は、その日わたしの横のベッドに引っ越してきた糖尿病の老人。気むずかしいところのある人だ。11時になり看護婦が巡回に来た。隣では静脈注射を打とうとしている。老人がいやがる。   「ここの病院の看護婦は失敗ばかりする」 「わたしじゃないでしょう」 「失敗するに決まってる」 「やってみないと分からないでしょう」 「若いこはだめだ」 「動かないでください」 「手際よくやらないか!」 「もう血管が細いのに・・動いたらだめでしょう」 「痛い!ほら失敗した」 「○○さんがプレッシャーをかけるからでしょう」 「自分が失敗したくせに」 「他の人を呼んできます」 かなり激しいやりとりだった。『他の人』はなかなか来ない。この顛末はどうなるのか・・・他の病人もセキひとつせず沈黙している。やっと『他の人』登場。声から判断して、いつものおっかない婦長さん。「○○さんどないしたん」(知ってるクセに)「若い子あんまり怒らんとってな」(オイオイじいさん、何とか言ってやれよ) どうやら無事に静注は終わったらしい。カチャカチャと片づける音。毛布を掛ける気配。去っていく看護婦の足音。オ−イ、おいらの血圧測定がまだなんだけど・・・。時が無駄に過ぎていく。誰かが部屋に入ってきて隣のじいさんのベッドの前に止まる。 「○○さん、本当に本当にすみませんでした。ごめんなさい」 深くわびている看護婦さんの姿が浮かぶ。じいさんは相変わらず何も言わない。しばらくして看護婦が去っていく。オ、オ、オイラの血圧・・・・。かなり時間がたつ。日付はもう変わった頃か。私のベッドのカ−テンがあく。「血圧、計りますね」 オオ、あやまったネ−チャンじゃないか(わたしって下品?)。よかった、立ち直っとるじゃん。右の腕をまくって 「さぁ、煮るなり焼くなり好きにしろ!」  「おお、好きにさせてもらうワ!」 なんちゅうやりとりや。向かいのカ−テン越しに大きな笑い声。他にも忍び笑い。私は・・・・単なるオバカです。

  3月15日を過ぎると身辺があわただしくなってくる。抜糸、と言っても大したことではない。手術痕の縫い目からはみ出た糸を切っただけだ。食事はどんどん普通食に近づいていく。起きている時間がどんどん長くなる。看護婦がだんだん振り向かなくなる(サミシ−!)。活字にチョイ飢えて食堂で大衆向け医学書を見る。自分の病のことが知りたくて、心臓病の本を読むが、5冊の本のどれにも出ていない。大動脈乖離ってB級の病気? 「お風呂に入ってもイイですよ」と言われ風呂場に行く。朝日がスリガラス越しに差し込んでいる。シャボン玉が清潔な香りを漂わす。この一番風呂が私だけのもの。キズグチより上はお湯につけることができないので、立ったままつかる。それでも極楽極楽。それから3日後私は退院する。 

  術後、私はのどに不安を抱えていた。のどにツッパリ感があった。声がしゃがれる。そして時々裏返ってしまう。くだんの食堂の本で調べると、反回神経麻痺というのだそうだ。ある本では開胸手術の後に起こることもあるという。退院間際に耳鼻咽喉科で診てもらった。やはり左の声帯が麻痺しているとのこと。幸い真ん中で止まっているため、一応声が出ているのだそうだ。薬の治療が必要で、1週間ごとに通院することになった。幸い6月に声帯は動くようになった。

 3月23日、咽喉のことはあったが、ウキウキした気分で私は退院した。医師が、1,2ヶ月の自宅療養が必要と診断書を出してくれたので5月の末までは養生ができる。やせ細った足も回復するだろう。妻が家の手入れもしてくれた。階段や玄関に手すりを付けてくれた。体力の衰えた私に対する配慮だ。トイレは1.2階とも温便座のウォシュレットにしてくれたそうな。10数年前に家を新築したとき、あえてしなかった改装である。そのころまだこどもが小さく、我が家で快適であっても、よそでトイレができなくては困ると、ウォシュレット化は避けていた。半月もすれば桜の季節、散歩は楽しいだろう。好きなCGも心いくまで描けるだろう。そんな気持ちで退院した。

  <退院はしたけれど>      3月23日〜5月29日

 退院後、起床は7時、就寝は10時と比較的規則正しい生活を続けることができた。昼疲れたときは寝るが、せいぜい2時間。日を経るにつれその必要もなくなってくる。 30分以上の散歩を、午前と午後にした。洗濯物を干したり取り入れたりした。食器の洗い物など簡単な仕事も進んでするようにした。しかし、どうもおかしい。なにかがへんだ。あれほど楽しみにしていた絵描きができない。技術を忘れているということがある。何から手を付けていいのか分からないときがある。でもそれだけではなさそうだ。私という人間の何かが変わってしまった、そんな気がしていた。散歩だってそうだ。 『健康』 という二文字が私を歩かせるが、景色など楽しんでいない。ソメイヨシノにしては枝振りのいい並木、八重咲きの古木、遅咲きの山桜。今年の桜は美しかった。また家の近所で奇貨とも言える桃の花を観た。一本の木に紅白の花を着けている。広い範囲で色が分かれている。接ぎ木ではないらしい。そんな木が幼木を含めて4本も揃っている。普段の私ならじっくり楽しんだろう。それが無理をして観察している、そしてときめかない。何かがおかしい。どこか深いところで私という人間が変わってしまった。もちろん絵など描けない。気持ちは焦るばかりだった。

 病院には、バスで通う。バスと言ってもマイクロバス、従業員のための通勤バスに相乗りさせていただく。4月になり、通院間隔が月一度から二度になる。見かけ上は順調に回復してきた。職場復帰も6月下旬と決まった。また、自分の病についてネットで調べる。私のような場合、死亡率90%と言う記事もあった。血圧が高すぎた(上200,下140だったもん)。もうタバコは吸うまいと思う。そして5月中頃CTスキャナ−をとる。

 <ノ−コ−ソク!>      2003年5月30日、31日

 5月30日、CTのフィルムと検査結果を見た主治医、「脳梗塞を起こしてますね。」 (ノ−コ−ソク?そんなこと聞いてないヨ!) 私はしばらく声も出ない。「2カ所。大きい方は2cmありますね。」(そんなこと感単に言わないで!) 心の中で絶叫しつつ、脳梗塞について知っている知識を反芻する。確か脳の血流が止まったために起こる。脳細胞が死亡(壊死とか言った)し、運動障害や記憶障害等々に陥る。死んだ細胞は再生しない・・以上。「で私はどうなるんでしょう・・・?」 「さあ、私は専門外ですから。」 (オ−イ、私は来月働きに出るんだぞ−!)「神経内科で診てもらいなさい。」(って、今日診てもらえるのかい?) 「明日また来なさい。連絡しておきますから。」

 さすがにその夜は寝られなかった。身体に悪いと思ったが、寝られなかった。いったい私はどうなるんだ。一命を取り留めたというのに・・・私の脳に2cmの穴があいている・・・どんな障害が私に起こっているのだろう・・・。ゆっくり考えてみる。運動上の障害は見られない。大事なことで記憶をなくしていることはないか・・・なさそうだ・・・でも記憶をなくしていたら、覚えがないのだから点検のしようがないじゃないかと気づく(こんな事が分からないなんて鈍くなったモンだ)。声が十分に出ないのは関係がないし・・・。ええい、脳の3分の2は使わないんじゃ、そこをやられていたら何の心配もない!と、強気になってみる。とにかく不安で過ごした夜だった。

 神経内科のお医者さんは物静かな方である。「やっぱりそうでしたか。」 彼はゆっくり話してくれた。手術中に私が酩酊状態になり、脳梗塞を起こしているのではないかと判断、処置してくれたこと。血液が固まらないよう点滴に薬剤をまぜていたこと。主治医にも引き続き薬剤投与が必要だと進言していたこと(主治医は投薬の指示を出していなかった)。私は、具体的に損傷を起こしている部位について尋ねた。「意欲と他のところをつないでいる通路に当たる部分ですね。」 よくは分からないが、無気力になったり集中力が欠けたりするかもしれないと言う。でも回路に穴があいただけなら、他にバイパスがつなげたら普段の生活に支障はないはずですね、と私が言う。「ええそうです。」と言いつつ、「他に気になるんですが・・」と医師が続ける。「これだけ大きな穴が一気に開いたとは考えにくい。以前に脳梗塞と言われたことはないんですか?」 言われたことはなかったが、心当たりならある。3年前の3月のこと、ワ−プロの仕事中私は急に頭痛に見舞われた。頭痛は数分でおさまったが、一太郎の画面を見ると吐き気が起こった。その後さすがに吐き気は消えたが、パソコンに長時間向かうことはできなくなった。また整理整頓が苦手になった。このことを話す。「きっとその時でしょう」と医師。

 神経内科医の話は、私には朗報だった。悪い状況ばかり考えていたから。だが意欲を持ちにくいと言うか、心ときめかない状況が続いているのは本人が一番よく知っていた。どうやら、私の孤独な闘病生活が始まりそうだ。

 <その後>      〜2005年

  2003年6月職場復帰した。通勤の足はクルマから自転車(電動機付き自転車)に変えた。もともと6kmの道は自転車に向いていた。ただ大和川の大橋を越えるのが大変だった、それでクルマ通勤をしていたのだ。自転車屋のおばさんが薦めてくれた電気自転車は快適だ。私に2割ぐらいの力を貸してくれる。毎日がいい運動になる。ところが2004年2月頃、通勤途中に胸の違和感を感じるようになった。痛くなるのではないが、胸に板でも乗っているような感じだ。医者に告げるとすぐに心電図の検査、ロードランナーを使い坂を造り早足で歩く。心拍数を140まで上げて20分感の変化を記録する。結果は狭心症の気があるとのこと。心拍数が130に近づくと不整脈が現れる、120を越える運動はしないようにとのこと。

 というわけで、私が今抱えている症状は4つ。

 一つは、術後の回復。医者の話では3年間は病人だと思いなさいとのこと。血圧を低く管理するよう言われ、投薬を続けている。二つ目は脳梗塞の後遺症。集中力が持続できない。三つ、声がひっくり返る。慢性的にのどを痛めた状態で歌えない。 カラオケができないのでストレスがたまりやすい。そして最後に運動がしにくい。ついつい自分をかばってしまう。

 しかも老いが急激にやってきた。この2年で一気に年をとった気がする。病や老いとどうつきあうか。うまくつきあわなければ行けないのだが、まだ素直になれない、老いたくない。未練タラタラの私である。

 この続きはグチが減ったら書きます。

 

 

 

 

 


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